関西学生陸上競技連盟80年の歩み
−草創期−

◆初めに−学生陸上競技のはじまり−◆

 ここではまず、関西学生陸上競技連盟80年の歩みを知るうえで、学生陸上競技のはじまりがいつなのかを押さえておくことは至極当然のことであるので、学生陸上競技のはじまりについて述べるいくことにする。

 わが国では1872年(明治5年)に学制が頒布されて以来、300年近く続いた徳川政権のもとで行われてきた藩校・寺子屋での学習から、教育界に新しい学習システムを確立した年であった。この1872年の学制以来、運動会(陸上競技)では、健脚走(今でいうマラソン)が行われていたという。

 では次に、厳密に学生陸上競技が行われた史実はというと、1876年(明治9年)に札幌農学校へ招聘されたウィリアム・スミス・クラーク博士が、彼の助手のウィリアム・ホイーラーとダビッド・ペンハローに命じ、学生に陸上競技を伝授し、1878年(明治11年)5月25日に、札幌において第1回競技会を開催したことから学生陸上競技が始まったとされている。また、東京においては、1883年(明治16年)6月に英国より日本に来たフレデリック・ウィリアム・ストレンジが、学校体育の普及・指導に貢献され、学生陸上運動会を開催したとされている。このような校内運動会を進めていくうちに、学生陸上競技は発展していったものと思われる。

 これらのクラークやストレンジが学校体育に普及・指導につとめた歴史的背景を受け、1907年(明治40年)に、校内運動会の延長として今でいう対校戦を、一高、帝大、高師をはじめ、学習院、慶応、早稲田、明治などが集まって競技会を開催したとされている。この大会が学連関係のものとしては一番初めのものであろうと思われる大会である。以後これに引き続き、今も多くの競技会が開催されているが、以上の大会により学生陸上競技がはじまったものと思われる。

 

◆第二に−大日本体育協会の創立と関東学生陸上競技連盟の創立−◆

 大日本体育協会は、1911年(明治44年)7月に創設され、初代会長には、嘉納治五郎東京高等師範校長が就任している。この東京高等師範校長の嘉納治五郎を初代会長とする大日本体育協会は、わが国スポーツの発展に大きく寄与した。この大日本体育協会では、1913年(大正2年)11月1・2日に、陸軍戸山学校運動場で第1回の全国陸上競技大会(現日本選手権)を開催している。当時のスポーツ界は、この大日本体育協会がすべてのスポーツを統括しており、当然学生スポーツをも統括していたのである。しかし、すべてのスポーツを統括しているが故に、その成長過程で幾つかの問題も起こしている。

 以上前述したことをさらに展開させて、次に関東学生陸上競技連盟の創設について述べていくものとする。関東学生陸上競技連盟の結成には、前述した大日本体育協会の問題がもとで発生したといっても過言ではないので、大日本体育協会の起こした諸問題と絡めながら語っていくものとする。

 大正初期の頃は数少ないものの、全国陸上競技大会、極東選手権大会、オリンピック予選会を頂点にして、次第に盛りあがりをみせつつあった。その中で、初めの事件は勃発した。それは、1919年(大正8年)マニラで開催される第4回極東選手権競技大会の日程を変更させようとしたことだ。「5月12日から6日間の日程では、学生選手が中心の日本では都合が悪いので8月にしてほしい」と提案、8月は雨期なので無理だと言われると、大会2ヶ月前の3月17日に極東選手権大会から大日本体育協会は脱退を声明した。この大日本体育協会の独善的な態度に学生の不満が募ったのは至極当然のことである。この大日本体育協会の独断専行への憤怒と学生自治の精神の高揚から、脱退1ヶ月後の4月に、東京帝大の宮下静一郎、沢田武治、東京高等師範の東口真平、野口源三郎、金栗四三、早大の金成(鈴木)義雄、東農大の森田俊彦、芝川亀太郎らが集まって協議し、全国学生陸上競技連合(現関東学生陸上競技連盟)が創設された。

 

◆第三に−関西学生陸上競技連盟の草創期−◆

 前述した通り大日本体育協会は、嘉納治五郎東京高等師範校長が初代会長として、1911年(明治44年)7月に創設され、当時のスポーツ界のすべてを統括しており、学生スポーツに対して色々と独善的なことがありました。そこで関東では学校を代表し、学校単位で得点争いをする対校陸上競技大会を開くこと、また、各学校に進学してくる中等学校の競技会を主催することを目的に、学連の組織を作ろうという動きがありました。それに当時、前述した第4回極東選手権大会をめぐるトラブルがあったように、学生の大日本体育協会への不信感が根強かったこともあり、1919年(大正8年)、東京で全国学生陸上競技連合(現関東学生陸上競技連盟)を結成しました。そして、関西を引っ張り込むために、関西にも関西学連を作れと盛んに誘いを入れてきたのです。

 そして、このような関東からの勧誘を受けて、関西でも学連結成の動きは1919年(大正8年)の頃からあり、大阪高商、大阪医大、同志社大、京都大、神戸高商、関西学院大などが集まって、規約作りが始まりました。規約作りにはまず1920年(大正9年)の秋に、関東から規約を送ってもらい、それを参考にして、規約が作成されたいったということである。そこで、若干、時期は相前後するかもしれないが、このような関東に刺激を受け、1920年(大正9年)に、初めて関西学院大と神戸高商との対校競技が鳴尾のトラックで行われた。このように考えれば当時は、各大学の陸上競技同士の接触は、極めて乏しいものであったことがわかる。

 しかし、1920年(大正9年)の前述した対校戦を契機に、各大学、お互いが実力の向上を計ろうという機運が生まれ、また、当時の大日本体育協会の独断専行に対しての態度に対する学生連盟の独立の団体を作ろうという気持ち、また、関西学連より2年早く発足した関東学連にも一本立ちして独立しようとする考えのもと、関西学生陸上競技連盟は、1921年(大正10年)の秋に、神戸高商の平岡国雄、米屋誠治、関西学院大の渡辺文吉・深山武夫、同志社大の半井修一、榎原如一、大阪高商の菊池辰雄、大阪医大の毛利一郎、関大の金田格などの5校が集まって協議した結果、関西学生陸上競技連盟を創設したとされている。ただ当時は、近畿圏ばかりではなく、中国地方からも、六高、広島高師、山口高校、松江高校などが加盟していたということであるので、今でいう関西学生陸上競技連盟よりは少し幅のある競技団体であったと窺い知ることができる。

 故に、関西学生陸上競技連盟の結成に際しては、スポーツのほぼ全てを切り盛りしていて、独善な態度をとる大日本体育協会からの独立と、関東学連からの強い勧誘をうけたことに対して独立心を駆り立てられ、しかしその中にも関東学連に左右されることなく、関西は関西として独立してやって行こうという2つの団体に対する独立独歩の精神の表れから関西学生陸上競技連盟が発足したと考えられる。また、それに加えて、関西においては大正初期の頃は、ほとんど競技会はなかった。まして、当時は各大学の得点争いをする競技会はなく、あったとしても招待リレーや選手権といった試合ばかりで、各学校の得点をトータルして争うような競技会(いわゆるインターカレッジ)はなく、そういう場がほしかったという、当時の社会状況、大日本体育協会、関東学生陸上競技連盟、とういう3つ要素が絡み、関西学生陸上競技連盟は誕生した。

 なお最後になったが、第1回の関西学生陸上競技対校選手権大会は、1921年(大正10年)12月2・3日に鳴尾運動場で、開催に成功し、神戸高商が優勝した。